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中国南宗画の歴史と南画院の歩み


●中国南宗画


 中国の山水画は唐時代に北宗画と南宗画の二派に分かれたと、明時代の画家・董其昌は書いています(『画禅室随筆』)。北宗(ほくしゅう)、南宗(なんしゅう)という言葉は、董其昌が禅の南北二宗派になぞらえて山水画を分類したものですが、北宗画=職業画家(官画家、宮廷画院の画家)の技法のみに拘泥する画、南宗画=文人画家(士大夫、官僚の余技)の内面性、精神性が表現されている画とし、北宗画の祖は宮廷画家の李思訓、昭道父子、南宗画の祖は文人の王維であると言っています。
 中国画の南北二宗論は南宗画家であった董其昌が南宗画の優位性を主張するために唱えたものですが、以降、この言葉が定着するようになりました。

 南宗画はその後の五代・宋時代に関同、董源、范寛、米元章、米友仁らに引き継がれ、元時代に入って「元の四大家」と呼ばれる画家たち、黄公望、倪?、呉鎮、王蒙らによって大成されたと言われています。その後、明時代の沈周、文徴明、董其昌らによってさらに洗練、発展して行きました。

 北宗画と南宗画の違いは、本来、職業画家か文人画家かの違いですが、絵画様式においても違いが認められます。北宗画は鋭い輪郭線を用いた力強く厳しい構成に特徴があり、南宗画は柔らかい筆遣いを重ねた主観的写実による表現を特色とします。


●日本への流入と日本南画の成立

 
 南宗画が日本へ流入したのは江戸時代の中期で、儒者の祇園南海、武士の柳沢淇園、俳人の彭城百川など文人、知識人によって取り入れられ、その後、池大雅、与謝蕪村らによって日本独自の「南画」として大成されました。江戸時代後期になると、浦上玉堂、田能村竹田、渡辺崋山、田崎草雲らによって本格的な文人画として発展を遂げました。

 明治時代に入ると、田能村竹田の門から児玉果亭、田近竹邨らが出て、京都南画の礎を築きます。一方、田崎草雲の門からは小室翠雲が、渡辺崋山の門からは椿椿山、野口幽谷、松林桂月らが続き、東京南画壇の流れを作っていきました。

 明治時代の日本南画の主流は、江戸時代からの伝統的な中国風山水画が中心で、大変流行したといわれます。しかし、実際の日本の自然風景を描いたものではなく、中国山水画の粉本や先人の手本に盲従して描いたため、南画を一定の形式の中に閉じ込め、次第にマンネリ、形骸化を進めることになりました。

 大正10年、水田竹圃、河野秋邨、矢野喬村、小室翠雲らによって、初の全国組織の南画団体である「日本南画院」が設立され、新しい南画運動が始まります。「伝統を打破して自然に直面することで創作的南画を生む」(水田竹圃)、「自己の個性を尊重し、日本風土に基づく日本南画を作る」(矢野喬村)ことを目標とする新南画運動でした。しかし、それも昭和15年、戦争の勃発とともに途絶えてしまいます。


●戦後の南画界

 第二次大戦後になると、南画界に再び新しい動きが始まります。小室翠雲門下の降旗篁岳、高橋暉山、須藤悟雲、矢野青霄らにより「南画院」(昭和21年創立・現特定非営利活動法人南画院)が、松林桂月、矢野喬村、河野秋邨、川口楽土らにより「日本南画院」(昭和34年創立・現社団法人日本南画院」)が創設され、現代南画創造への追求が再び活性化します。

 現代南画は戦前の新南画運動を引き継ぎつつ、さらに発展した新様式を作り出しています。モチーフは中国に代わって日本風物が中心となり、写生に基づく主観表現を重視しています。技法的には、従来の線を重視した南画描法に加えて、日本画や西洋画の写生技法や構図法も取り入れています。さらに絵画形態は掛け軸から現代生活に合った額装へと変わってきました。これらによって、大自然の中に自己を没入して浄化し、水墨と墨彩により個性を表現するという東洋絵画の精神は引き継ぎながらも、現代に合った新様式の南画が確立され今日に至っているのです。


●南画院のあゆみ

 現在の「南画院」は昭和21年5月、焦土と化した東京の地で、小室翠雲先生の教えを受け継いだ降旗篁岳先生をはじめとする同人の先生方や関係各位の多大なご尽力とご協力で創設されました。

 東京都美術館で第一回公募展が開催されて以来65年の歳月を経て現在に至っています。
 その間展覧会場も変わり、平成十三年五月には「特定非営利活動法人南画院」として認証を受けました。

 現在は創立同人の志を継ぐ第二世代、第三世代の人々によって運営されています。
 平成27年6月には東京都美術館を会場に第68回公募展を開催する予定です。



特定非営利活動法人南画院
理事長 須藤曉雲











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